比叡山はなぜ母なる山になった?

2019年 12月 30日  放送  ブラタモリ

この日の「タモテ箱4」は 「比叡山はなぜ母なる山になった?」

(タモ) 修行するところじゃないの?
(林田アナ) 厳しいイメージ

広辞苑で調べると

② 特に比叡山またはそこにある延暦寺の称

比叡山延暦寺  天台宗総本山

1200年の間に 5大 宗派の 祖を排出している

法然(浄土宗)  親鸞(浄土真宗)  栄西(臨済宗) 道元(曹洞宗) 日蓮(日蓮宗)

平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録

面積1700ヘクタール(新宿区と同じ位)

日本最長のケーブルカー 最大傾斜18度 標高654m 11分

西塔エリア 横川エリア 東塔エリア に分かれる

ーーー東塔エリアーーー

主要な法要が中心 大講堂

開運の鐘(50円)

根本中堂(国宝) 大改修中  油を継ぎ足し決して炎(法灯)を消してはならない(油断大敵)

講堂の中で僧がお経を詠む場所は参拝する場所より3m低く作られている
仏像と同じ目線で崇め、誰もが仏になれる素質を持つという意味

最澄の実書 国宝 「天台法華宗年分縁起」 どのようなお坊様を育てようとしたのか決意

一隅を照らす:自身が輝き世の中を照らす存在に

心構え:(忘己利他)己を無くし 他を利する

平安時代には 3000 の お堂があった  現在は 100 以上

ーーー西塔ーーー

にない堂:修行のみ  常行堂:90日間歩くー修行により自分の中の輝きを導き出せる

ーーー横川ーーー

おみくじ発祥の地  面接がある 住職が引き個室で説明を受ける

「 元三大師堂のおみくじは
自分の進むべき道に迷いができたとき
お大師様にその方向を決定していただくものです
決して予言ではありません
運試しの方には ご遠慮いただいております 」

要予約  申込用紙に 住所・名前・年齢・相談内容を書く

自分の人生の中で自分では決められないこと、悩みをお大師様に
お伺いできる悩みかどうか 住職がまず判断する

真田幸村と真田一族

2019.6.4

先人たちの底力 知恵泉 見ました?

「 信州 上田の 真田一族のブランド力 維持する哲学 」

上田合戦 上田城にて  真田軍3000 VS 徳川軍本体秀忠率いる38000

関ヶ原へ向かう道中、「真田を一ひねりしてから向かうか」

な~んて 簡単にあしらえると考えていた 秀忠軍を

上田城にてわずか10分の1の軍勢で 好戦し 足止めをくらわした!!

おかげで 二代 将軍秀忠の軍勢は関ヶ原の戦いに間に合わなかった・・・

そして、徳川の 東軍が 勝利し、東軍に参加した 真田家 長男の 信之 が家名を残すこととなる。

信行は 徳川家 四代(家康ー秀忠ー家光ー家綱)にわたり 関わりを持つこととなる。

当時の徳川家の記録には「手本とすべき人物」とさえ書かれている。

現在 愛知県宿得大学教授でいらっしゃる 真田家子孫 真田幸光さんは

真田家の家訓を 「 死ぬまで生きよ 生に固執しなさい 生き延びなさい

どんなに辛いことがあっても生き延びていく そういう執念を持ちなさい」

とおっしゃっていました。

ーーー1600年 7月ーーー

徳川家康は 上杉景勝を征伐するために 会津若松へ向かっていた。

道中 真田家(昌幸・信幸・信繁) と合流す為まずは 宇都宮を目指していた。

ーーー7月21日ーーー

石田三成 から 書状が届く

天下を狙う 家康を 成敗するため 挙兵した

仲間に加わってほしい

ーーー「松代通記」 真田家の歴史をまとめた書記ーーー

昌幸と信繁は 三成に

信幸は「家康様について出陣したものを、今になって寝返るのは不義理である!」

父 昌幸は 信幸が信頼する僧を呼び説得させたが、

「信幸さまは一度決めたことは誰にも変えられません。説得は無理です!」

との事で 父 昌幸と次男信繁(幸村)は上田城へ戻り

長男 信幸 は家康と合流し宇都宮城へ向かった。   <犬伏の別れ>

真田家が分裂することは 三成も 家康も 予想外であった。

家康 側は 秀忠から 信幸だけが合流しましたと聞くと 「奇特千万」と 大いに驚き

勝てば昌幸の領地 上田を 与える と喜んだ

ーーー真田信幸ーーー

若い時から荒武者で 身長は当時の鎧から 185 cm はあったと推測される

秀吉の命令で出陣した忍城攻めでは、父と弟が止めるのも聞かずわずか20騎で出城を攻撃し

落城させたと言う武勇伝も残る

ーーー1600年 9月15日ーーーー

関ヶ原に敗れた 父 昌幸 弟 信繁(幸村) は 和歌山の九度山へ蟄居となる

1603年 家康 征夷大将軍 となる

この時 朝廷より 恩赦 が出るだろうと 期待した   ・・・なかった

その時の手紙には  「九度山より下山できるのも間近であろう 下山したら積もる話もしたい」

信之は 家康から「忠義の人である」と 沼田と上田をもらう事となった

しかし 上田に戻った 信幸は 凄惨な現実を目の当たりにする

上田地区は雨が少なく 田畑は荒れ 浅間山の噴火も重なり 干ばつ が続いていた

信幸は マイナスをプラスに変えようと 年貢の追徴取りやめ 村に戻った農民には米一俵を支給した

自分のお金で農民を買い戻したのである。

雨が少ない⇒干ばつ⇒天気に恵まれている⇒稲作に適している  という発想転換

93 才 まで生きた 名君