関東の覇者 北条家 初代 北条早雲  2代目 北条氏綱

1493年 北条早雲 が堀越公方 足利茶々丸 を追放し伊豆を制圧した。 伊豆の西隣、駿河の今川氏に属していた北条早雲は伊豆の混乱に乗じて東の扇谷上杉定正の手引きにより 韮山城を攻略することに成功した。ここに扇谷上杉と北条の同盟が成る。これにより山内上杉家との対立も一層深まった。また同じくして京都の政権も乱れており、戦国時代の幕開けとなって行く。 1945年 早雲は小田原城を攻略した。 扇谷上杉定実が病死し、領内が混乱の中、早雲は同盟関係を無視し、鹿狩りと見せかけ箱根山中に入った。夜のを待ち、暗くなると牛に松明をつけあたかも大群が小田原城を完全に包囲したように見せかけて扇谷上杉の城を攻め落としたのである。 1510年 上杉軍が越後の長尾為景との戦いに気を取られている間に、早雲は相模へと出陣した。 上田政盛らを寝返らせたり、いくつかの城を攻略した頃、知らせを聞いた扇谷上杉軍がすぐさま南下し早雲を退陣させた。 1512年 早雲は古河公方家 足利高基の支援をもとに再び相模の攻略に着手する。 難攻不落と言われた岡崎城を陥落させ、大庭城も攻め落とし、玉縄城も強制的に没収した。 ここに伊豆と相模を北条早雲が掌握した事となった。ここからは玉縄城主として次男の伊勢氏時を配置して拠点とし関東制圧に乗り出すこととなる。 1518年 北条氏綱 31才で家督を継ぐ 1519年 早雲64才?で 死去 これにより二代目氏綱が小田原城を本城とした。 1524年 氏綱はついに武蔵へと攻め入った。 扇谷上杉勢から太田資高の寝返りにより簡単に江戸城を攻略した。 続けざまに二つの城を攻略した。武蔵南部は北条氏のものとなった。 これに対し扇谷上杉は、山内上杉に応援を要請し、また、甲斐の守護 武田信虎とも協力し 反撃を開始してきた。この猛反撃により氏綱は後の二つの城を返還し、和睦することとなった。 1525年 氏綱は和睦を破り岩付城を再び奪還するが、この時北条家最大の危機が訪れる。 扇谷上杉家=山内上杉家=古河公方=甲斐武田=真里谷武田=小弓公方=安房里見 という反北条包囲網の大連合が成ったのである。氏綱と北条家はまさに四面楚歌に陥った。 しかし、北条方は里見勢からの鎌倉の鶴岡八幡宮襲撃のみであり、 この頃、小弓公方・足利義明の間で和睦が成立し、真里谷武田・里見も氏綱と停戦。 現状房総諸勢は包囲網から脱落していたとの見方もある。 1530年 嫡男 氏康15才 扇谷上杉家と多摩川河原の小沢原で戦い大勝利を収める。 1533年 房総里見家で内紛が起きた。氏綱は里見義尭を援助したことで北条方に付いた。 また同じくして真里谷武田家でも内紛が起き小弓公方の勢力も弱体化した。 1537年 扇谷上杉家が世代交代するのを見計らいすぐさま武蔵の扇谷上杉本拠地河越城を落し、 三男為昌を城代とした。 同年 今川の世代交代にお家騒動が起こり、氏綱が指示した今川義元が家督を継ぐ。 しかし義元は長年北条と共に敵対してきた甲斐武田家の娘を娶り甲駿同盟を結んだ。 この裏切りに激怒した氏綱は今川との同盟も主従関係も破棄し駿河の河東地方へと攻め入り占領した。 また同じくして房総の武田を制圧に里見勢へ援軍を送ったが、逆に反撃に遭い北条は房総を追い出された形となった。 この時、西に強国甲斐武田・今川連合軍、北に上杉、東に足利義明を中心とした房総諸氏と反北条勢に囲まれ、完全に逃げ場を失う事となった。再三の四面楚歌である。 1538年 氏綱はまず包囲網を解く必要があった。利害関係の一致する古河公方の足利晴氏へ娘を嫁がせることに成功した。古河公方との盟約を成立させたのである。これで必勝態勢を整えた。 氏綱は氏康と共に小弓公方足利義明・里見義尭連合軍と激戦を繰り広げ大勝利を収めた。 これで北条家は武蔵南部から下総にかけて勢力拡大に成功したのである。 また、関東公方足利氏の内紛も義明の死により足利晴氏が総括となり、氏綱は関東東管領職を命じられ政治的地位も著しく向上する事となった。 また翌年、氏綱は娘を嫁がせていることから御一家の身分も与えられた。 1541年 氏綱 病で死去 享年 55 才  氏康が家督を継ぐ 26 才

厳島の戦いー覇道を進む事となった元就の奇襲戦

1555年 神の島 厳島 9月30日 深夜 毛利 元就(もとなり)軍 3500騎  VS  陶 晴賢(すえ はるかた)軍 20000騎 陶軍は厳島にある「宮ノ尾城」こそが毛利軍の重要拠点であると策略により信じ込まされていた。 そのため、陶軍は全軍20000を宮ノ尾城の近くの丘に本陣として配置し 9/22 総攻撃を行った。 この攻撃に対し宮ノ尾城守備陣は500、別働隊が1500、本陣が2000であった。 同日、宮ノ尾城が落城寸前となると、毛利軍は瀬戸内海を挟み対岸にある「地御前」に 9/28 本陣を布いた。 この同日、村上氏率いる「村上水軍」300隻が来援した。 9/30 暴風雨の中、毛利家三男小早川隆景と村上水軍(別働隊)が陶軍の援軍を装い厳島に接近。 村上水軍は水上で待機。隆景率いる別働隊は陶本陣近くに上陸。 同日、毛利軍本陣から元就・隆元・次男吉川元春(主力軍)が陶軍を隆景軍と挟み撃ちする形で上陸。 10/1 陶軍本体は総崩れとなる。 晴賢は敗走し、厳島の大江浦で自刃となった。 狭い場所でひしめく陶軍は混乱に陥り、海へ逃げようとする者は、船がすでに村上水軍により沈められており、 なすすべなく海岸線を敗走することとなった。 勝敗を喫した村上水軍との同盟ですが、もちろん陶軍からの要請もありました。 ところが、陶晴賢が海上通行税の徴収権を水軍から取り上げてしまった事に恨みを持っていた為、毛利方に付くことを決めていました。 毛利軍は勢い冷めやらぬ間に本州岩国に進軍し制圧した。