戦国武将事典 乱世を生きた830人

【内容情報】(「BOOK」データベースより)

掲載武将数830人!全78の大名家ごとに読める武将事典。

生年・没年順索引や掲載武将の城主変遷データつき。

【目次】(「BOOK」データベースより)

北海道・東北地方/関東地方/甲信越地方/東海地方/近畿地方/中国地方/四国地方/九州地方

【著者情報】(「BOOK」データベースより)

吉田龍司(ヨシダリュウジ)

文筆家。京都市出身。

1989年都留文科大学文学部卒。

元証券・経済専門紙デスク。

2002年よりフリーになってからは、おもに歴史、経済、サブカル方面で活躍。

記者生活での豊富な取材経験を生かし、古城・古戦場のフィールドワークや各種文献の調査などを好む

相川司(アイカワツカサ)

歴史、ミステリ評論家。

日本推理作家協会員。

1951年東京生まれ。

1973年早稲田大学卒業

川口素生(カワグチスナオ)

歴史研究家(専攻は戦国・江戸時代)。

昭和36年(1961)岡山県生まれ。

岡山商科大学商学部、法政大学文学部史学科卒業。

法政大学名誉教授・村上直博士に師事

清水昇(シミズノボル)

歴史作家・日本文藝家協会会員。

昭和19年(1944)群馬県生まれ。

陰の忠臣、播州赤穂浅野家の逐電家老「大野九郎兵衛」の研究をライフワークとする(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

自分の 先祖 載ってないですか?

天才軍師 黒田 官兵衛

天才軍師  59 年の生涯

1546年 兵庫県 播磨に生まれる。(播磨とは)東・中・北・西播磨合わせた地域

21才 光 と結婚

22才 長政が生まれる

31才 秀吉に 姫路城を明け渡す

32才 荒木村重に捕えられ幽閉される

33才 1年ぶりに救出され帰国

35才 鳥取市鳥取城を兵糧攻めで落とす

36才 中国大返しを指示し、山崎の戦いへ

37才 賤ヶ岳の戦い

41才 秀吉より豊前6群を拝領する (福岡県豊前市)

43才 長政に家督を譲る

44才 小田原城 落城

46才 朝鮮出兵

54才 関ヶ原の戦い

59才 京都 伏見 にて死去

現在の姫路城は江戸時代初期に池田輝政により改修されたもの。 秀吉時代の規模は小さかった。それ以前に官兵衛が統治していた頃はさらに小さく、石垣や天守も存在していなかった。 黒田氏の立身の秘密は、商売上手にあったとされる逸話がある。 小寺氏に使える傍ら、広峯神社の加護を受けた「目薬」を売り出し、財を成したとされている。 斉藤道三もしかり、江戸時代の講談等で広まったものだと考える。 鋭い経済感覚を身につけていたのは事実で、豊前の中津城は交通の要衡に築かれている。後に筑前に移った際も 港町として栄えている博多を取り込むような立地に福岡城を築城している。 関ヶ原の戦いの際、主力部隊は長政と共に参陣していた為、九州にいた官兵衛は大友義統との戦いに現状では不利だと判断した。そこで官兵衛は資金を使い軍勢を募集し、3000人以上の浪人を集めることに成功した。 この軍勢を率い石垣原(いしがきばる)で大友軍を撃破することができた。 息子と東軍についていたことから、関ヶ原の戦いの後、黒田家の所領は大幅に加増されることとなった。

関東の覇者 後北条家 3代目 氏康

1545年 またまた反北条大連合が成り今度こそ北条家消滅の危機にさらされる。 南からは武田・今川連合軍が河東を、北からは公方・上杉軍8万が河越城をと同時に攻め込んできたのである。 そもそも北の足利晴氏は同盟国であったが、上杉憲政が大連合計画を持ちかけ賛同してしまった。 この大国大連合に南北から挟み撃ち、それも同時と来たから今度こそ絶体絶命である。 この時、氏康は今川・武田連合軍と河東で対峙し交戦を繰り広げていたが、北の河越城にも大群が押し寄せ包囲しているという情報が入り進退窮まった。当然ここで河越へ向かえば今川・武田連合軍は勢いそのままに進軍して小田原城が危ない。 がしかし、このまま河越城を見捨てると、公方・上杉連合軍も勢いが付き一気に進軍し武蔵は陥落するであろう。 この時まさに奇跡が起こった!! 信濃の村上義清が武田の背後をこの時ばかりと一大勢力を上げ進軍してきたのである。 武田信玄は帰国を急ぐあまり今川と北条の和睦を決定し、河東返還のみとしたのである。 偶然?にも助けられ南の安全を確保できた氏康は、すぐさま8000の兵を連れ北上し河越城へと向かった。 河越城では3000の兵が篭城しており、もはや時間の問題であったため、城を明け渡すと申し出たが、 連合軍はこれを拒否。もはや決戦あるのみとなった。 6か月に及ぶ篭城の間にもはや兵糧も尽き力尽きていた。氏康も何度も和睦の交渉を行ったが、そもそも10分の1にも満たない兵力では交渉にもならず、風前のともし火であった。 氏康は最後の賭けに出た。夜襲である。河越城から3000騎+8000騎で一気に討って出た。 包囲軍も大軍であったがゆえに油断していた。まず扇谷上杉朝定が戦死し、山内上杉憲政が敗走、足利晴氏も敗走し、空前絶後の大大勝利となったのである。 この戦いにより扇谷上杉家は滅亡した。また武蔵北部のほとんども北条家に服従となった。 1552年 北条氏康 上野を勢力圏に 上杉憲政 討伐に出る。上野領内の西上野衆が北条方に付いた事もあり、一気に優位となった。 また、平井城攻略の際、憲政の馬廻役が北条方に付き、憲政を城外へ追い出した事で憲政は敗走となった。 逃走の際、頼りにしていた足利長尾氏からも入城を拒否され、越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。 上野全土も北条の勢力圏となった今、関東には北条に立ち向かえる勢力は無いと判断し、古河公方の足利晴氏も家督を子に譲り氏康に屈した。これにより何と下総までも北条の勢力圏となったのである。 1554年 今川義元が西の三河に進行中、その隙をついて氏康は駿河へ侵入した。これを知った武田信玄は同盟関係でもあったことから大軍を率いて氏康阻止へと動いた。 しかしこの大戦を善しとしない者がいた。今川軍の軍師大原雪斎である。 大原雪斎は今三国が争い共に戦力を失っていくことの不利益を説き和平調停を行った。 ここに甲・相・駿の三国同盟が成った。 1556年 氏康は結城政勝と提携する。下野西部から常陸南部まで拡大された。 1559年 氏康(45才)は家督を氏政(22才)に譲る

関東の覇者 北条家 初代 北条早雲  2代目 北条氏綱

1493年 北条早雲 が堀越公方 足利茶々丸 を追放し伊豆を制圧した。 伊豆の西隣、駿河の今川氏に属していた北条早雲は伊豆の混乱に乗じて東の扇谷上杉定正の手引きにより 韮山城を攻略することに成功した。ここに扇谷上杉と北条の同盟が成る。これにより山内上杉家との対立も一層深まった。また同じくして京都の政権も乱れており、戦国時代の幕開けとなって行く。 1945年 早雲は小田原城を攻略した。 扇谷上杉定実が病死し、領内が混乱の中、早雲は同盟関係を無視し、鹿狩りと見せかけ箱根山中に入った。夜のを待ち、暗くなると牛に松明をつけあたかも大群が小田原城を完全に包囲したように見せかけて扇谷上杉の城を攻め落としたのである。 1510年 上杉軍が越後の長尾為景との戦いに気を取られている間に、早雲は相模へと出陣した。 上田政盛らを寝返らせたり、いくつかの城を攻略した頃、知らせを聞いた扇谷上杉軍がすぐさま南下し早雲を退陣させた。 1512年 早雲は古河公方家 足利高基の支援をもとに再び相模の攻略に着手する。 難攻不落と言われた岡崎城を陥落させ、大庭城も攻め落とし、玉縄城も強制的に没収した。 ここに伊豆と相模を北条早雲が掌握した事となった。ここからは玉縄城主として次男の伊勢氏時を配置して拠点とし関東制圧に乗り出すこととなる。 1518年 北条氏綱 31才で家督を継ぐ 1519年 早雲64才?で 死去 これにより二代目氏綱が小田原城を本城とした。 1524年 氏綱はついに武蔵へと攻め入った。 扇谷上杉勢から太田資高の寝返りにより簡単に江戸城を攻略した。 続けざまに二つの城を攻略した。武蔵南部は北条氏のものとなった。 これに対し扇谷上杉は、山内上杉に応援を要請し、また、甲斐の守護 武田信虎とも協力し 反撃を開始してきた。この猛反撃により氏綱は後の二つの城を返還し、和睦することとなった。 1525年 氏綱は和睦を破り岩付城を再び奪還するが、この時北条家最大の危機が訪れる。 扇谷上杉家=山内上杉家=古河公方=甲斐武田=真里谷武田=小弓公方=安房里見 という反北条包囲網の大連合が成ったのである。氏綱と北条家はまさに四面楚歌に陥った。 しかし、北条方は里見勢からの鎌倉の鶴岡八幡宮襲撃のみであり、 この頃、小弓公方・足利義明の間で和睦が成立し、真里谷武田・里見も氏綱と停戦。 現状房総諸勢は包囲網から脱落していたとの見方もある。 1530年 嫡男 氏康15才 扇谷上杉家と多摩川河原の小沢原で戦い大勝利を収める。 1533年 房総里見家で内紛が起きた。氏綱は里見義尭を援助したことで北条方に付いた。 また同じくして真里谷武田家でも内紛が起き小弓公方の勢力も弱体化した。 1537年 扇谷上杉家が世代交代するのを見計らいすぐさま武蔵の扇谷上杉本拠地河越城を落し、 三男為昌を城代とした。 同年 今川の世代交代にお家騒動が起こり、氏綱が指示した今川義元が家督を継ぐ。 しかし義元は長年北条と共に敵対してきた甲斐武田家の娘を娶り甲駿同盟を結んだ。 この裏切りに激怒した氏綱は今川との同盟も主従関係も破棄し駿河の河東地方へと攻め入り占領した。 また同じくして房総の武田を制圧に里見勢へ援軍を送ったが、逆に反撃に遭い北条は房総を追い出された形となった。 この時、西に強国甲斐武田・今川連合軍、北に上杉、東に足利義明を中心とした房総諸氏と反北条勢に囲まれ、完全に逃げ場を失う事となった。再三の四面楚歌である。 1538年 氏綱はまず包囲網を解く必要があった。利害関係の一致する古河公方の足利晴氏へ娘を嫁がせることに成功した。古河公方との盟約を成立させたのである。これで必勝態勢を整えた。 氏綱は氏康と共に小弓公方足利義明・里見義尭連合軍と激戦を繰り広げ大勝利を収めた。 これで北条家は武蔵南部から下総にかけて勢力拡大に成功したのである。 また、関東公方足利氏の内紛も義明の死により足利晴氏が総括となり、氏綱は関東東管領職を命じられ政治的地位も著しく向上する事となった。 また翌年、氏綱は娘を嫁がせていることから御一家の身分も与えられた。 1541年 氏綱 病で死去 享年 55 才  氏康が家督を継ぐ 26 才

厳島の戦いー覇道を進む事となった元就の奇襲戦

1555年 神の島 厳島 9月30日 深夜 毛利 元就(もとなり)軍 3500騎  VS  陶 晴賢(すえ はるかた)軍 20000騎 陶軍は厳島にある「宮ノ尾城」こそが毛利軍の重要拠点であると策略により信じ込まされていた。 そのため、陶軍は全軍20000を宮ノ尾城の近くの丘に本陣として配置し 9/22 総攻撃を行った。 この攻撃に対し宮ノ尾城守備陣は500、別働隊が1500、本陣が2000であった。 同日、宮ノ尾城が落城寸前となると、毛利軍は瀬戸内海を挟み対岸にある「地御前」に 9/28 本陣を布いた。 この同日、村上氏率いる「村上水軍」300隻が来援した。 9/30 暴風雨の中、毛利家三男小早川隆景と村上水軍(別働隊)が陶軍の援軍を装い厳島に接近。 村上水軍は水上で待機。隆景率いる別働隊は陶本陣近くに上陸。 同日、毛利軍本陣から元就・隆元・次男吉川元春(主力軍)が陶軍を隆景軍と挟み撃ちする形で上陸。 10/1 陶軍本体は総崩れとなる。 晴賢は敗走し、厳島の大江浦で自刃となった。 狭い場所でひしめく陶軍は混乱に陥り、海へ逃げようとする者は、船がすでに村上水軍により沈められており、 なすすべなく海岸線を敗走することとなった。 勝敗を喫した村上水軍との同盟ですが、もちろん陶軍からの要請もありました。 ところが、陶晴賢が海上通行税の徴収権を水軍から取り上げてしまった事に恨みを持っていた為、毛利方に付くことを決めていました。 毛利軍は勢い冷めやらぬ間に本州岩国に進軍し制圧した。

徳川家 11代当主が語る 真田家とのつながり


徳川家が見た「真田丸の真実」【電子書籍】[ 徳川宗英 ]
【内容情報】(出版社より)
因縁の徳川家と真田家だが、じつは真田幸村は家康の二重スパイだった!? 田安徳川家・第11代当主が語る「大坂の陣」の真相とは?

【内容情報】(「BOOK」データベースより)
真田幸村は死後、英雄視され、庶民の願望に沿って話がつくられていった。いまわれわれに伝えられていることと実際は違ったのではないか、と著者は考える。幸村はほんとうに徳川の敵だったのかー、著者は「じつは味方だったかもしれない。そう考えられることがいくつもある」という。真田父子が徳川将軍を二代にわたり翻弄した上田合戦の真相に触れ、関ヶ原の戦いで真田父子はなぜ袂を分かったのか、そのとき家康がめぐらせていた壮大な深謀遠慮とは何だったのかを探る。真田一族と徳川・諸大名との有名なエピソードから、意外なつながりまで網羅。徳川家と真田家の因縁を、徳川家の視点から検証する。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 上田合戦の真相(沼田を誰が支配するか/支配者を失った甲斐・信濃は草刈り場に ほか)/第2章 関ヶ原は頭脳戦(秀吉死して、家康動く/「敵の敵は味方」という発想 ほか)/第3章 大坂冬の陣ー真田丸の激闘(豊臣政権復活の可能性をゼロに/方広寺鐘銘事件は「徳川の言いがかり」ではなかった ほか)/第4章 大坂夏の陣ー家康の首は無事だったのか(戦の前に息子の結婚式に出席した家康/壮絶な最期を遂げた又兵衛、豊臣の軍勢は総崩れ ほか)/第5章 秀頼亡命伝説と幸村の子供たち(大坂落城後、遺体がなかった秀頼は薩摩で生きていた!?/大酒飲みの秀頼、谷山の食い逃げ伝説 ほか)

【著者情報】(「BOOK」データベースより)
徳川宗英(トクガワムネフサ)
作家/田安徳川家・第11代当主。1929年、英国ロンドン生まれ。慶應義塾大学工学部を卒業後、石川島重工業(株)に入社。アイエイチアイエンジニアリングオーストラリア社長、石川島播磨重工業(株)理事、関西支社長、石川島タンク建設(株)副社長を歴任。95年に退職したのち、静岡日伊協会名誉顧問、全国東照宮連合会顧問、一般社団法人霞会館評議員、一般社団法人尚友倶楽部監事(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)