1555年 神の島 厳島 9月30日 深夜 毛利 元就(もとなり)軍 3500騎 VS 陶 晴賢(すえ はるかた)軍 20000騎 陶軍は厳島にある「宮ノ尾城」こそが毛利軍の重要拠点であると策略により信じ込まされていた。 そのため、陶軍は全軍20000を宮ノ尾城の近くの丘に本陣として配置し 9/22 総攻撃を行った。 この攻撃に対し宮ノ尾城守備陣は500、別働隊が1500、本陣が2000であった。 同日、宮ノ尾城が落城寸前となると、毛利軍は瀬戸内海を挟み対岸にある「地御前」に 9/28 本陣を布いた。 この同日、村上氏率いる「村上水軍」300隻が来援した。 9/30 暴風雨の中、毛利家三男小早川隆景と村上水軍(別働隊)が陶軍の援軍を装い厳島に接近。 村上水軍は水上で待機。隆景率いる別働隊は陶本陣近くに上陸。 同日、毛利軍本陣から元就・隆元・次男吉川元春(主力軍)が陶軍を隆景軍と挟み撃ちする形で上陸。 10/1 陶軍本体は総崩れとなる。 晴賢は敗走し、厳島の大江浦で自刃となった。 狭い場所でひしめく陶軍は混乱に陥り、海へ逃げようとする者は、船がすでに村上水軍により沈められており、 なすすべなく海岸線を敗走することとなった。 勝敗を喫した村上水軍との同盟ですが、もちろん陶軍からの要請もありました。 ところが、陶晴賢が海上通行税の徴収権を水軍から取り上げてしまった事に恨みを持っていた為、毛利方に付くことを決めていました。 毛利軍は勢い冷めやらぬ間に本州岩国に進軍し制圧した。